

2002/0616日
仕事が遅れているのは
日本代表のせいですか
というお電話を
編集氏から頂く
まるでその通りなので
そうです日本代表のせいです
などと返して
お叱りを受ける今日この頃である
それにしても
勝てば官軍、勝たなきゃ何にも
手に入らない厳しさを
ワールドカップという大舞台を観ていると
しみじみと感じてしまう
ラフプレイは許されないが
さりとて「紳士」に勝利は無い
「仲良し」に活躍の場は無く
さりとて「連帯」を
無視すればチームが危うい
どんなことをしても「勝つ」という
意志には
ある種の暴力がふくまれている
他者から奪い、他者を封じ込め
自己を極端なまでに先鋭化し
敵同士
味方同士の
間柄の中に切り込んでゆく
個人の暴力が
味方チームの活力となると同時に
試合全体を活性化させるもので
なければならぬところに
サッカー選手の苦悩の本質が
あるのではないか
そして
その暴力を飼い慣らし
真に力としたときの感動をこそ
僕は試合に見出そうと
しているのかもしれない
各選手の
活躍といっても
一言では到底、表せない
ボールをキープすることが活躍か
得点を入れることが活躍か
パスをすることが活躍か
守ることが活躍か
自分が目立つことが活躍か
チームを勝たせることが活躍か
観客に愛されることが活躍か
どれもが「活躍」であり
そしてどれもが
試合全体の一部に過ぎない
自分を活躍させるということは
第一に
自分がどのような活躍に
適しているかを
知るということだ
そしてその活躍に
どんな意義があるかを
知るということだ
それゆえに
活躍の舞台は
自分を本当に問い質した人間にしか
立てないのだ
そしてそれは
どんな仕事でも
小説の執筆にも
言えることだ
駆け抜ける選手を観るたびに
自分はいったい何者なのかを
鋭く
問われるような気がするのだ
選手は自分自身のプレーによって
「俺の活躍とはこういう活躍のことを言うのだ」
と
告げている
では
自分は?
そのプレーを観ている
自分の活躍とは一体なんなのか?
自分に何が出来る?
今していることは
本当に自分にとっての活躍か?
その先はあるか?
自分の人生とはいったい何なのか?
自分はどこから来た?
自分はどこへ行く?
行くべきところへ行くための準備を
ちゃんとしているか?
試合を観るたびに
そういう問いが
気炎となって
胸の内に高まってゆく
もう燃え盛ると言って良い
目を据えて
歯を軋らせて
選手達の勝利を祈るとき
それは同時に
自分自身の勝利を
見出そうとしているのだ
最終的には行動の結果でしか
もたらされないのが勝利であるとしても
その勝利を作り出すのは日常の態度に
他ならない
勝利の是非を問いただすとは
一瞬の出来事を問いただしているのではない
一生の態度が問いただされているのだ
勝利とは99%の態度と
1%の出来事によって
成り立っている
一瞬の出来事の向こうに
無数無辺の人々の態度が
広がっているのだ
選手達のみならず
この大イベントを準備し運営し
そして次につなげようとする
多くの人々の態度が
そこにはあるのだ
だから
だから
やめられない
観ることをやめられない
ここでやめることは出来ない
何があろうとも
それを抱え背負って
観に行かねばならない
多くの人の態度を少しでも知ること
それが今の自分の態度であり
そしてそれが今後の自分を作るからだ
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1329657668/l50