たなかtumblr

“　このイギリス艦隊来攻のことを、沖永良部島できいた西郷吉之助は、
「いかな、おとがめを受けてもかまわぬ」
　敢然、新しい船をつくり、島を脱出せんとした。
　罪人が船をつくるなどとは考えられぬことだが、なんと、この船をつくってくれたのは西郷を見張っている島役人の土持政照なのだ。
　罪人として来島して約一ヵ年の間に、全島をあげて、島民も役人たちも、みな西郷の威徳に服してしまっている。
　前の大島のときとは違い、今度は罪人としての島流しであるから、はじめは、二坪余にすぎぬ牢内に閉じこめられ、
「牢獄の構造はきわめて粗末にして、東西戸なく、南北壁なく、牢内の一半は居所にして一半は厠なり。わずかに板屏風をもってこれを覆う。ために穢臭ふんぷんとして、牢外、なお、かつ鼻口を穿つ」
　と〔謫所逸話〕は記している。
　だが、西郷は悠々としてせまらず、模範的な囚人たらんとつとめ、常に正座し、沈思黙考倦むところを知らなかった。
　着物も躰も垢とあぶらにまみれ、髪もひげものびるにまかせ、栄養失調となって顔色憔悴し、さすがの巨体も痩せ細った。
　こうした西郷吉之助を、役目柄、絶えず監視していたのが、沖永良部島駐在の横目役・土持政照なのである。
　監視しつつ、西郷と言葉をかわす。
　言葉をかわしたら最後だ。
　たちまちに西郷の魅力的な人格にふれ、まいってしまう。
　こころのあるものなら、また西郷の話をききたいとおもう。
　またきく。また、まいってしまう。
　ついに土持政照は、
「……政照すなわち、牢内の敷物を新たにし、滋味を贈り入浴をすすめ、小使を附して使役に便ならしむ」
　ということになり、浴後の運動をさせるのだという名目で外へ連れ出し、ついには、
「たまには、ようございもそ」
　と自宅へ西郷を連れて行き、酒まで飲ませるという始末になってしまう。
　西郷も、もう牢にいるのだか、政照の家にいるのだかわからなくなり、島の子供に学問を教えたり、釣竿をつくったり、得意の農政をもって島民をみちびいた。このときの西郷の指導が実り、明治末年には沖永良部島は当時の金で二万数千円の貯財を有していたそうな。島民は、この貯財をもって若者の学資金をまかなったといわれる。”

- 池波正太郎「西郷隆盛」 (via hirai

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